イエス・キリストの姿 ~神様に至る道になった人~

イエス・キリストという名前は世界中で最も有名な名前の一つですね。
ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、「イエス」は名前で、「キリスト」は「救い主」という意味です。
世界人口の30%以上が信じるといわれるイエス・キリスト。いったいどんな存在なのでしょうか?
聖書を通してイエス・キリストに出会い、その生き方に衝撃を受け、人生が変わったという人は多いと思いますが、私もまさにその一人です。
ここでは、私が個人的に印象に残っている聖書の言葉とともに、イエス・キリストの人物像にふれてみたいと思います。

私がご紹介する内容はすべて、「聖書の疑問は聖書で解ける」という鄭明析牧師の聖書講義や説教から学び、理解したことにもとづいています。  ※鄭明析牧師公式サイトhttps://wolmyeongdong.com/
また、あくまでも「学んだこと、感じたことのご紹介」ですので、どなたに対しても強要する意図はありません。

目次

【もともと「弱い人間」だった?】

イエス・キリストの生涯は新約聖書の4つの福音書に記録されています。イスラエルのベツレヘムという小さな町で生まれ、ナザレという田舎で育ち、「およそ30歳」から公に福音をのべ伝え始めたとあります。ヨセフとマリヤという信仰深い両親のもとで生まれたイエス・キリスト。世の中に福音をのべ伝える、その前の姿を聖書の言葉から探ってみます。

マタイによる福音書 13章54~57節
 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。

貧しい大工の子として生まれ、富や地位、名誉、学歴などとは無縁だった青年イエス。生活の苦労や社会的に何のバックグラウンドないことで、さまざま限界にぶつかり、人生のあらゆる問題に苦しんだであろうことは想像に難くありません。幼い頃からのイエスを知る人は、福音を伝えはじめたイエスをむしろ怪訝に思いました。彼らが知らない間に、青年イエスは人生の問題をどのように乗り越え、福音をのべ伝えるに至ったのでしょうか。


「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」

ヘブル人への手紙5章2~3節
 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。

「肉の生活」とは、イエスがキリストとして公に使命を果たす前の生活のことです。「激しい叫びと涙をもって」と表現されるような切実さで救いを求めるほど、人生の苦痛、困難のなかで、人間としての弱さ、罪の解決を祈り求めていた姿がありました。青年イエスは、人間には解決できない人生の問題、罪について、ただ、すべての答えを持つ神様に祈り願い求め、神様の言葉・聖書に傾倒した「深い信仰」の人だったのです。

【宗教家や学者もかなわない聖書(律法の書)のエキスパート】

福音書を読むと、イエス・キリストが、聖書(当時は聖書=律法の書)全体を深く理解し、当時の宗教指導者や学者よりも、その核心を鋭く突いて教えたことがわかります。

マタによる福音書 22章35~40節
  そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

律法学者が膨大な内容の律法の書の核心について意地悪い質問をしました。しかし、イエス・キリストは言いよどむこともなくズバリ答えて、学者たちは返す言葉がありませんでした。
群衆が、律法学者たちとは次元が違うイエス・キリストの教えに驚いた場面が、福音書にはいくつも出てきます。

マタイによる福音書 7章28~29節
 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

【神様の愛を体現する人生】

有名な聖書の言葉の中でも、私が神様の深い愛が表れていると感じる言葉や場面をご紹介します。クリスチャンでなくてもどこかで触れたことがあるかもしれません。

マタイによる福音書11章28~29節
 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

マタイによる福音書 5章44~45節
 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

マタイによる福音書 9章10~12節                                          それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

イエス・キリストは、神様の愛を言葉で伝えるだけでなく、常に自ら実践していました。病気や社会的な差別などで人々に疎外されていた人たちのことも、決してみくびることなく、分け隔てなく接しました。病に苦しむ人を癒し、ついてくる人たちみんなに理想的に生きる道、心の「天国」について教えることで人生の問題を解決し、その言葉と行動で常に神様の愛、敵をも愛する愛を体現した人生でした。

【神様に至る道】

ヨハネによる福音書 14章6節
わたしは道であり命であり命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。

それまでは、神様を「僕’(しもべ)」の立場で愛してきた人々が思いもつかなかった、神様を「父」として愛して生きる次元に至ったイエス・キリスト。神様を息子として愛し、愛される道を切り開き、「わたしは道」であると、断言するに至りました。

青年・イエスが普通の人と違ったのは、その人生の問題の解決を、切実な祈りとともに、神様とその言葉「聖書」に求めることで、完全な答えを得たこと、そして神様の愛をのべ伝えるだけではなく徹底的に自ら実践し体現したことだったのではないでしょうか。
イエス・キリストは十字架に架けられ処刑されました。明らかに無実の罪でした。普通の人間には到底耐えられるはずのない困難と苦痛の中でも、心と思いと命を尽くして神様を愛し、神様の愛の中で人々を愛するその生き方は、死に至るまでもぶれることがありませんでした。

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この記事を書いた人

天運教会に通う主婦。家族は夫と子ども(成人)2人とうさぎ。教育関係の財団職員、派遣事務職等を経て最近心理カウンセラーの資格を取得。たまに教会で聖書の講師もしてます。動物大好き、お散歩、寝ること大好き、健康オタク(?)

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