お疲れ様です。いかがお過ごしでしょうか。早速ですが、今回の題名はある曲の歌詞の一部なのですがお分かりですか?少し簡単ですかね。山崎まさよしが作詞作曲したSMAPの「セロリ」という曲です。今回はこの曲について…ではなく、先週考えてみたことについて話したいと思います。
ー育ってきた環境が違うから
今回話すことは、社会を批判したいわけでも、世の中に一石投じたいわけでもなく、むしろ自分への戒めのつもりでアウトプットするので軽く流してください。
普段ボクは色々と物事について思考する癖があるのですが、先週は、「『人と違う』ことってそんなに悪いことかなあ」とふと考えることがありました。人種が違ったり、性格が変わってたりするだけで珍しいものを見るような目で見られるのが、不思議だよなと思っていました。「セロリ」の歌詞にこんな一節があります。
「育ってきた環境が違うから 好き嫌いはイナメナイ」
「セロリ」は73万枚ほど売り上げており、オリコンランキング週間2位にもなっているので世間で評価はされているはずなのですが、ボクも含めてこのように「それぞれ背景が違うんだから、違って当たり前じゃん。」っていう意識が薄いなあと思いました。そこでどうしたら「違うこと」に寛容になれるか考えてみることにします。
ー「違い」ってなんだろう
何をもって「普通の人」、「変わった人」と分類されるのでしょうか。「老人」と「若者」、「障がい者」と「健常者」、「白人」と「黒人」など様々区別されていることはありますが、ここでは人間を『パン』に例えたいと思います。甘いあんぱんのような人もいれば、刺激的なカレーパンのような人もいて、形がいびつなクロワッサンのような人もいる。パンにもそれぞれ、甘い、辛い、パサパサ、しっとりというような味や食感があるように、人間にも優しい、怒りっぽい、泣き虫など「個性」があります。しかし、皆あくまで「パン」であって「人間」なので、大元は「小麦」であり「土のちり」(旧約聖書創世記2章7節)です。つまり皆にそう大きな差はないように感じます。
ー人にやさしく
ボクは普段、街中で困っている人を見かけたら極力力を貸すように心がけているのですが、このように明らかに目に見えて大変そうな人を助けるのはある意味当たり前の、誰にでも出来ることではないかと思います。しかし、難しいのは「どんな人にも同じように優しく愛をもって接することが出来るのか」ということです。
例えば、人ごみの中を歩いていると向かいから歩いてきた人に肩をぶつけられたとします。謝られたとしても、「なんだ?」と少しむっとしてしましますよね。しかし、「もしもその人が目の不自由な人だったかもしれない。」と考えたら少し寛容な心を持つことが出来るのではないでしょうか?そのように、ぱっと見ではわからないけど困っている人はたくさんいると思います。パンの例えで確認してみましょう。ボクがあんぱんだとします。目の前に自分と全く同じ見た目をしたパンがいて、ボクは「仲間だ!」と思って話しかけます。ボクは嬉しくて、「こしあん派と粒あん派にわかれるよね。」とか「デニッシュあんぱんなんかもあるよね。」とか、あんぱんあるあるをぶつけていました。しかし相手のパンがどうも気が乗らない顔をしているので聞いてみたところ、彼は中身がクリームのクリームパンだったのです。自分が良かれと思って行っていたことが、実は相手を苦しめていた、なんて結果になってしまいました。
ー聖書で考える
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」
聖書を学んでいない人でも知っているほど有名な聖句だと思いますが、この一言が全てであり核心だと改めてわかりました。皆自分が可愛いのは当たり前で、尊い考えだと思います。そのように他人を愛する、優しくするということが特に聖書を学ぶボクたちにとって大事なのです。でもこれが結構難しい!!まだまだ未熟だからこそ、正直「何だこの人は?」ってむっとしちゃうこともあるし、「変な人だなあ」と思っちゃうこともあります。でもそこを信仰の力で乗り越えてこそ、教会に通ってる意味があるでしょう。しかも「普通に優しい人になりたくね!?」っていう思いもあります。「違い」に寛容になれるように、相手の状況を理解してあげられるように、人にやさしくなれるように頑張ります。
来週に続く
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