「勉強エリート=人生勝ち組」だと信じていた私が聖書に出会った経緯

自己紹介
記事を書いた人 Mako 東京在住。
国際系の大学で物理学(光学)を専攻し、医療工学をより深く学ぶために理系の大学院へ進学。
現在は社会人として、理系とは関係のない仕事に就き、日々成長中。
最近痛感すること:①自己流はNG!知っている人に学ぶこと! ②能動的に動くことの重要性 ③やります宣言ではなく、実践を。

 聖書に出会う前の私は、「ルールは絶対」「東大生が人生勝ち組」という考えを持つクセ者。
そんな自分に大いに満足していたところから一変、自分が大嫌いになった大学時代。


しかし、それは全て私が聖書に出会い、今の人生を手に入れるために絶対に必要な道だったとわかり、ダメな過去の人生全てについて感謝感激できるようになった経緯を綴ります。

目次

海外での生活後、日本に帰国したら性格が変化した

 私は小学1年生から3年生までは父の仕事の関係で海外生活をしてました。記憶している限りでは、当時は本当に自由に生きていたと思います。
 そして4年生になるタイミングで帰国。

 そこから私の性格は突然変異しました。笑
 性格や考え方がどう変わったのかというと、『クソ真面目』です。笑


 特に顕著になったのは中学生になった頃。進学校で校則が厳しく、スマホを自宅で所持すること自体NGだったり、当然弁当以外のお菓子NG、服装は制服のスカートの長さも指定あり、髪およびヘアゴムの色、髪の長さ、時には髪の縛り方まで口を出してくる学校でした。

しかし、そんな窮屈極まりない校則が私にはフィットしていて、「これをみんな守ればみんな真面目に生きられる」と考えていました。そのため、それに少しでも反する人が目につくと、「この人ルール破りだ、早く退学退学!」と心でいつもイラついておりました。笑

それだから、担任の先生にも「クソ真面目にもほどがあるぞ」と言われたこともありました笑

「勉強ができる人こそ価値がある」?!

 そして、そんな校則絶対ガールには別の極端思考がありました。それが、『勉強ができる人こそ価値がある。東大医学部は人生勝ち組、尊敬に値する。』です。
 私は理系、特に数学や物理が好きで、数学の先生と数学のディスカッションをすることに喜びを感じており、趣味も「勉強」と答える人間でした。

 さて、私の特徴のうちの2つを取り上げてみましたが、これら2つに共通することがあります。それは<思考力・想像力の欠如>です。結局はそれが自分をダメにしていました。

 ルールを守る、というのは一見よいことですが、ルール自体は「与えられたもの」なので自分で考えることはしません。ただ、そこに則っているのかどうか、○か×か、それだけの思考です。そのため、ルールを少しはみ出したとしても個性を出そう、などという考えは一切ないのです。

 そして、勉強勝ち組思考ですが、そもそも学校の勉強、特に理数系の分野で取り扱う問題は<答えがある問題>です。そのため、世の中の大半の<答えのない問題>へ立ち向かう力は養えていなかったのです。(※もちろん、学校の教育制度で自分で考える力などが養われるかもしれませんが、私は自分の偏った考えで生きたことで、養えていなかった、ということです。)

 さて、そんな私はもちろん東大の医学部を夢見て勉強したこともありましたが、やはり当然狭き門。高校3年生の時は東大に行くか、医学部に行くか(一応、それぞれ志す理由もちゃんとありました)心から悩んでいました。
 最終的に医学部を選んだものの、志望校不合格。
 進学したのは国際系の私立大学(以降K大学)。
 K大学は私の本命ではなかったものの、これが私の人生を180度完全に変えました。

 大学進学前は、クソ真面目な自分だとしても愛する家族がいつもそばにいてくれ、家庭環境が世界一と自慢できるほど恵まれていたので、<自分のことが大好き>な人間でした。

大学に入学後、自分が嫌いになった

 しかし、K大学に入ってからは<自分のことが大嫌い>になりました。

 その理由はといえば、以下。留学生・帰国子女の割合が多く、個性が溢れるとっても自由でオープンな雰囲気。


 そして授業は”ディスカッション”だらけ。これらは狭い世界で極端な考えで止まっていた私にとってはパンチが効きすぎました。

 先に述べたように、私には答えのない、賛否両論が発生する問題に対して、抗体がなかったのです。ですから、授業の中で行われるディスカッションタイムにて、「あなたの意見は?」という質問がいつも恐怖でした。周りはディスカッションが好きな人が多く、自分の意見をはっきり述べる人ばかり…対して私は「…あなたと同じ意見です。」、別の人が別の意見を言うと「…確かに、それもそうだと思います」と。人に流されて軸はぶれぶれ。


 大学生になって「私って考え空っぽだ」とよ・う・や・く気づくようになりました。
 そこに終止符を打ちたくて、英語のディベート部に入部して思考力をつけようと試みました。しかし、堂々と自分の割り振られたPro/Conの立場を主張しても、どうしても反論されると「たしかに~」と納得してしまい、切り返しができず、なかなかうまくいかない。

 ディベートではなく、知識をもっと増やすために国際問題ディスカッションサークルに入ろう!と思い立ち、そちらへシフト。しかし、そっちの方こそもっと「あなたの意見は?」を求められ、結局苦痛になりフェードアウト。

 自分は空っぽ。考えの軸が何にもない。
 勉強はそこそこできたが、今じゃそれは何の自分の価値にもならない。
 こんなはずじゃなかった…
と病みそうで涙することもありました。

 そんなときに、出会ったのがこの《聖書》でした。

仏教好きが聖書に出会う

 実は私は仏教が好きでした笑
 虚無感、無常、というのが好きだったのですよね。


 大学に入ってからの趣味は(<勉強>ではなく)<寺社仏閣巡り>。寺社仏閣雅楽サークルにも体験入部の連絡をしていました。そして極め付けが、「仏像図鑑」。これを図書館で借りて読んだり、枕元に置くことで夢の中での仏像パワーを信じていたり…笑


 逆にキリスト教というものへは「キリストの再臨が…」「火で裁かれる…」などの看板や街中の演説を聞く中で、何か怪しさや怖さを感じていました。

 しかし、ある日、私の尊敬していた同期のディベートバリバリ女子(以降Eちゃん)ととても久々に出くわすことがあり、その時に自分の近況を伝え、軸がない、考えがない、という悩みを打ち明けました。

Eちゃん「どうしたら自分の意見持てると思う?」

私「知識を増やすこと。たくさんの本を読んで教養を身につけること。」

Eちゃん「でも本っていっても無限にあるよ?図書館にある本だとしても全部は読めないし、どれを選べばいいかわからなくない?」

私「…うん、確かに。」

Eちゃん「でもね、一冊だけ読めば間違いない本があるよ。」

私「!!??(絶対読む!!!!)」

Eちゃん「なんだと思う?」

私「走れメロス?」 

Eちゃん「ブー!」

私「…あ、聖書だ!」

Eちゃん「正解!」

ということで2回目のチャレンジで当てました。笑

それまでは先述のように、キリスト教はどちらかというと私にとってはネガティブなイメージでしたが、その時は藁にもすがる思いで、すぐに

私「聖書知りたい!!!」

と口から出て、聖書を学ぶようになりました。

聖書を学んだあとの生活

聖書を学んでいる最中は、時には「これを学ぶことで本当に<自分の軸>ができるのかな?」と懸念する思いも湧いたこともありましたが、結論、本当に聖書を学べば文字通り、『すべて』が解決しました。

もちろん生活の中でたくさんの問題や苦痛にぶち当たり、頭を抱えることもあります。

しかし、聖書を学んだことで自分の《生きる目的》がはっきりとわかったから、問題が問題ではなくなりました。

井の中の蛙時代の自分からは考えられないくらい、今の私は御言葉の中で生きる<自由>を通して神様がくださった各個人ひとりひとりの<個性・タラント>の価値を認め、単なる学問的な勉強だけでは決して得られない<真理>を得て、誰よりも自分は幸せ者であると自負できる人間になりました。

御言葉が私の軸となり、人生の中心となりました。

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