お疲れ様です。いかがお過ごしでしょうか?少し期間が開いてしまいました。突然ですが、皆さんは自分の長所と短所は何?と聞かれたら何と答えますか?ボクは何ですかね?なぜこのようなことを言うかと申しますと、先週この長所や短所に関する説教が行われ、改めて考える機会がありました。というわけで、今回は説教の内容に触れつつ、人間の長所や短所について考えたいと思います。
ー長所・短所は普通に見てはいけない、深く探さなければいけない
皆さんはこれまでに、ご自身の長所と短所について深く考えたことはありますか?日常生活においてこのような機会はそう多くないのではないでしょうか?しかしボクはつい最近考えざるを得ない状況になりました。就職活動です。一般的に就職活動において「自己分析」が重要だと言われています。市販の書籍やインターネット、時には第三者の力を借りながら、自分の強みは何か、課題は何か、それが企業にどう生かせるのか、など自分を一度丸裸にすることが求められます。このような自己分析に限らず、長所・短所を考えるときに重要なのが、『普通に探さず、深く探す』ということです。例えば、ボクの長所を「普通に探し」た場合、「努力家」です。すごく極端な例ですが他にも、「負けず嫌い」や「冷静」、「コミュ力(コミュニケーション能力)が高い」など、「普通に探せ」ば、まるでポケモンの特性のような誰にでも当てはまる「普通の」長所しか見えてきません。また、ボク自身が経験して思ったのは、「人間は意外と己の理想像を長所として掲げたがる」ということです。実際に自分が「努力家」なわけではなく、「努力家」でありたい、と言う理想を抱いているから、長所だと思い込んでしまうということがあると思います(実際ボクもそうでした)。それでは、自分の本来の魅力も伝わらないし、理想と現実との乖離に後々自分が苦しくなってしまうでしょう。そうならないためにも「深く探す」ことが重要になってくるのです。
ー短所が長所の邪魔をする!?
ちなみにボクが長所と短所を「深く探し」た結果(2020年11月19日現在)、
長所:自分の位置を客観視しつつ、目的に対して熱心に努力しコツコツと前進する
短所:一つのことに意識が向きすぎて盲目的になってしまう、物事に取り掛かるのが遅い、問題が浮き彫りになってからでないと対処しない……
となりました。まだまだ分析は必要ですが…
少し短所が多くなってしまいました。とまあこのようにボクに限らず、特に日本人は短所に先に目が向きがちだと言います。しかし、それではいけないのです。短所ばかりに目が行き、せっかくの長所を見失っている、短所が長所を邪魔しているのです。ここではこのように感じた、ボクの実体験を話します。
ボクは小学生から高校までずっとバスケを続けていました。能力がなかったボクは長所を生かして、人一倍練習し何とかレギュラーを勝ち取ってきました。大学生になり、これまで以上に様々な選択肢があったにもかかわらず、何の迷いもなく今度は審判としてバスケに関わるようになりました。一、二年生の時は「バスケがボクのアイデンティティだ!」くらいに思い、どっぷりのめりこみました。毎日バスケのことばかり考え、バスケに関する努力は尋常じゃなかったと思います。しかし、バスケばかりに目が行き、全く勉強していなかったら成績がみるみる下がっていき、一時留年の危機に晒されるほどになってしまいました。もちろん両親にも迷惑をかけ、自己嫌悪に陥りました。このような経緯もあって、ボクはその二年間、もっと言うとバスケに投資した時間を快く肯定できなくなってしまいました。しかし先週の説教を聞いて、まさにこれが「短所が長所の邪魔をしている」ことだと思いました。バスケに投資し、熱烈に努力をしたことは悪いことではなく、むしろ長所が生かされたいいことです。しかし、他のことが見えなくなるほど盲目的に取り組んでしまう、問題が浮き彫りになってから対処する、といった短所が働いてしまい、せっかくの長所を認めることが出来なくなってしまっていました。
聖書から一度離れたのも同じことが言えるかもしれません(そこら辺の話は下記から初めのブログ参照)。
お初にお目にかかります、「ボク」です
一度聖書に違和感を覚えてしまい、それにまつわる人、モノ全てが非なるものだと盲目的に思い込んでしまった当時のボクは、「聖書を学ぶ」というある種長所のようにいいことを、同じく短所によって邪魔されてしまっていたのかもしれません。
ー長所を使って、短所を直す
というわけで、このように様々な弊害がありますから、短所は直さなければいけません。「前回のブログと言ってること違うじゃないか!」とお思いかもしれません。確かにボクは前回のブログで、「皆それぞれ違うことを認め合って、弱いとこをカバーしてこうぜ!無理に変わらなくていいんだぜ!」みたいな内容を書きました。
セロリが好きだったりするのね
しかしそれはあくまで、外向きの矢印に関して言ったつもりです。もちろん、自分の短所を他人にとやかく言われる筋合いはないし、逆にボクも皆さんの短所を突く権利はありません。しかし、内向きの自分に対する矢印はどうでしょうか。やはり、短所を直したい、と思う方が多いのではないでしょうか?「ボクはボクだからこのままでいいんだ」と短所まで認めてしまえば成長が止まってしまうような気がして、少なくともボクは改善したいと思います。しかしそのようなとき、力技で、童話の「北風と太陽」で言えば北風のようなやり方で無理やり短所を直そうとしてしまいがちですよね。しかし、20数年かけて作り上げてしまった短所は、ちょっとやそっと決意を固めただけでは直すことが出来ず、すぐに元通りです。そのたびに「ボクはなんて情けないんだ」と落胆し、力を失ってしまうのがいつものパターンです。そこで重要になってくるのが、「長所を用いて、短所を直す」ということです。これもまずは実体験を話してみたいと思います。
ボクは週一で社会人や学生たちと一緒にスポーツをしています。先週はサッカーをする機会がありました。しかし、正直に言うとボクはあまりサッカーが好きではありませんでした。長年やっているからかろうじてバスケが出来るボクにとって、足を使うサッカーは全く上手にプレーできませんし、そのせいで小中学生の体育の授業で経験者に怒鳴られ、委縮しながらやっていたトラウマもあるので嫌いでした(サッカー好きな方すみません…)。しかし、せっかくやるなら実践あるのみだということで、「運動量を上げて、積極的にボールに絡む」という自分にも出来ること(長所)でサッカーというボクにとっての短所をカバーしようと考えました。試合中はとにかく必死でボールを追いかけ、経験者に教えてもらったとおりに走り、数打ちゃ当たる戦法でプレーしました。その結果学んだことが二つあります。
一つ目は、「マジで短所はカバーできる」ということです。自分の出来ることを必死にやるという、この場においての長所によって、上手くプレーに絡めたし、チームメイトが声をかけてくれるようになったし、何より嫌いだったサッカーが好きになりました。
二つ目は、「出来ない人の気持ちを再認識した」ことです。ボクはずっとバスケをしてきたので、未経験者と一緒にプレーしていると出来ない人の気持ちを理解できずに、自己中心的になったり、イライラしてしまうことも恥ずかしながらあります。しかし、今回ボクが圧倒的に出来ない側で、一緒にプレーした経験者の方々が適確なアドバイスや励ましの言葉をくれたので、「もっと頑張ろう」、「言われたとおりにやってみよう」と思えるようになりました。そこで改めてボク自身が、出来ない人や自分と違う人に知らず知らずのうちに不親切に接していないか確認するようになったし、自分がしてもらったように接してみようと思えました。
ーなんやかんや自分と向き合うのは大変
ここまでつらつらと書いてきましたが、ボクもまだまだ自分自身としっかりと向き合えていません。自分の弱いところ、出来ないところと向き合うのは辛いし苦労することです。しかし、いつまでも無視していたら、自分がアクションを起こさなかったら変化することはありません。それでも前向きにアクションを起こしてみませんか?後ろ向き代表みたいなボクが言うんだから、皆さんも出来ると思います。今話題の『鬼滅の刃』にこんな台詞があるのをご存じですか?
「頑張れ炭治郎頑張れ!! 俺は今までよくやってきた!! 俺はできる奴(やつ)だ!! そして今日も!! これからも!! 折れていても!! 俺が挫(くじ)けることは絶対に無い!!」(『鬼滅の刃』第24話「元十二鬼月」単行本第3巻収録)
これは痛手を負いながらも自らに降りかかる不安を払拭し、鬼に立ち向かう主人公・炭治郎の言葉です。確かに漫画の世界の話かもしれませんが、「ボクは出来る!大丈夫!心配するな!」と自分に言い聞かせながら取り組んでみませんか?初めは自己暗示のような感覚でも、人間の脳は意外とその辺は大雑把に出来ているので、そのうち本当に出来る!と思えるはずです。ボクもまだまだネガティブに陥りがちですが、前向きに長所を見つめて頑張りたいと思います。
来週に続く
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