もう一つの誕生日

こんにちは。もうすぐ2020年も終わりますね。ボクは今日12月26日信仰生活において、節目の時を迎えました。というわけで今の思いを赤裸々に綴りたいと思います。いつものように外に向けて学びを発信するというよりは、自分と向き合うものにしたいので、あえて常体で書かせていただきます。いつも以上に読みづらいかもしれませんがご了承ください。

ー2020年12月26日

クリスマスも終わり、世間が一斉に年の瀬ムードになる今日、ボクは信仰において転機となる式典を迎えた。それは、ある一定期間聖書を学び、真理を理解するようになった者がその期間を修めるために与えられる、いわば「卒業式」や「表彰式」のような祝福である。本来の意とは少し異なるが、ここでは「卒業式」と呼ぶことにする。とはいえ、「ここまでよく学んできたからここから好きなようにしていいわよー」なんていう高校や大学と言ったある種の制約から解き放たれるようなものではなく、むしろこれから始まる神様とともにする人生の、本当の意味でのスタートラインである。これまでは、まるで赤ん坊のように先輩方に可愛がられ、管理され、(具体的には一緒に祈ってくれたり、講義を伝えてくれたり…)大事に大事に育てられてきた。時に失敗しても、うまく出来なくても許されることが大半だった。しかし、今日を境にボクのために祈り、時間や労力を捻出して下さる機会は一気に減少する。ここで勘違いしてほしくないのは、急に1人にされて放り出されるのではない、ということだ。管理してくれる人の手を離れ、神様と生きる新たな人生において独り立ちする機会が今日この日なのだ。今の心情は実家を出て一人暮らしを始める前の、それに似ている気がする。「念願の1人暮らし!自由だ!あれやってこれやって…」という新生活への期待と「毎日、家族で食卓を囲んでご飯を食べる機会はこれが最後か…」、「くだらないことで喧嘩をする機会も減るのか…」というセンチメンタルな気持ちが同居しているあれだ。「これからもっともっと神様を信じて生きて、頑張るぞ💪」というワクワク感と「もうみんなと一緒に祈ることはなかなかないのか」、「もう今後ここまで大きな節目がやってくることはないのか」という寂しさ、名残惜しさがこの日が近づくにつれて大きくなってきた。しかしそれ以上に、紆余曲折ありながらもこのように成長し新たなスタートを切れるということが何より嬉しく、感謝すべきことなのだ。

高校を卒業して大学生になることや、大学を卒業して社会人になるといった世間一般の門出と、この「卒業式」で大きく根本的に違う部分がある。それは「永遠性」だ。大学も4年間、長い人でも7〜8年で終わりが来るし、社会人も学生より長いとはいえ定年退職という終わりが来ていつまでもバリバリ働けるわけではない。しかし、神様を信じるということに終わりはない。何十年信仰を持てばゴールということでもないし、歳をとったからといって引退することもない。もし仮に終わりが来るとするならば、それはボクが信仰を手放す時だろう。このことを考えると、無事に「卒業」を迎えられた喜びと同時に未来への不安が襲ってくる。ボクは元々ネガティブな人間だ。先のことは考えるなと言われても考えてしまうのがボクだし、考えないと逆に楽観的になりすぎて大失敗をこく。だからここはボクなりに、ポジティブにネガティブ思考をやらせてもらう。正直今はすこぶる調子がいい。無事にここまで来られたことが嬉しいし、自分の長所に気づけたし、1年前に比べると遥かに人生が楽しい。しかし、「今」はそうかもしれないが、本当にどんなことがあっても絶対に信仰を失わない!とはっきり言えるだろうか。人生は何があるかわからない。たとえ神様を信じているからといって、明日、数年後のことがくっきり見えるわけではない。もしかしたら明日事故に遭うかもしれないし、病気になるかもしれない、信仰を保てないほどに精神を病んでしまうかもしれない。はたまた巨万の富を手にし、地位を手に入れ、絶世の美女と結婚して何不自由なく生活できるようになった時に、真実に神様に願いも止めることができるだろうか。今日「卒業」を迎えて管理者という親元を離れた時、1人でこういった患難・困難に打ち勝つことができるだろうか。不安は考えれば考えるほど尽きることはない。

というここまでが当日を迎えるまでのボクの正直な心情だった。しかし、今日の説教を聞いてそんなことを考えていた自分を恥ずかしく思った。神様やそれぞれの時代に遣わされた使命者たちはどんな苦痛を受けても倒れることなく歴史をなしてきた。ボクたちに説教してくださる牧師先生もそうだ。そんな見習うべき方々を近くで見て、学んできた結晶が今日じゃないか!何を甘えたことを言っているんだ!とても身が引き締まる思いだった。実際に聖書にもこのような箇所がある。

「さて、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」ーヘブル人への手紙11章1節

ボクはこの聖句がとても好きだ。成したい望みがあるということも、未来を見ることが出来ないということも、神様を信じていようがいまいが人類皆条件は同じ。しかしボクたちには神様がいる。今まで成された願いの数々が神様がくださったものだとわかるし、これから成すべき目的の全てが神様が手をつけ導いてくださるものだとわかる、このことがどれほど大きいのかもう一度考えさせられた。

勉強で仕事で疲れたからどうした、なかなか報われないからどうした、そんなことは問題ではない。それを言い訳にしてやめてしまうことが1番の問題じゃないのか?むしろ神様という絶対的な後ろ盾がいるから怖いものなど1つもないだろう。チャレンジし放題じゃないか!辛くなった時こそ、今日まで尽力してくださった先輩方、仲間、そして神様を頼るべきだろう。それがこれからのボクの最強の「個性」だろう!そして今度はボクが仲間を、新たな命を助ける番じゃないか!もちろんここまで来られたのは自分の努力とは1ミリも思ってない。この人たち、そして神様がいなければいまここにいないと思う。ただ、今日この日を迎えられるようにこれまで毎日石を積み上げてきた、ボクに一言だけ言いたい。

「諦めずにいてくれて、ありがとう」

明日も早い、今日のボクはもう寝ることにする。

あーーー、明日の朝起きたら八村塁になってねえかなあー

(アツい言葉の数々に自分で恥ずかしくなったので、ちょけて終わりました)

来週に続く

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この記事を書いた人

Heaven's Fortune Churchに通う学生。
日々のことを記します。

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