どうも!Heaven’s Fortune Churchに通う男子学生です^^
みなさん、ゴールデンウイークをいかがお過ごしでしょうか!?緊急事態宣言が出てしまって、思うようには過ごせない人も多いかもしれませんね(><) 皆さん一人一人が健康で、少しでも充実した休暇を過ごせるように願います。
さて、今回のテーマは“愛”です。
「おお。これまた壮大なテーマに出たな。」と思ったそこのあなた。
鋭い指摘です、、笑 てか誰でもそう思いますよね。
でも、どうかお願いですから、「10年20年しか生きてない若造に、愛の何が分かるんだよ」なんて思わないでくださいね。
そりゃあ、私は若くて未熟なところもたくさんあるし、人生の先輩方からすれば「まだまだだ」と思われるかもしれないけれど、だからと言ってこの20年間何も考えずに生きてきたわけじゃないでしょう?
確かに幼ないというのは否定できないけれども、幼いなりにも自分で見て、感じて、考えることは出来るでしょう?
だからここは、「どれどれ。せっかく書いてくれたみたいだし、うちの息子が書いたとでも思って、いっちょ読んでみるか。」
と、大人の寛容な、暖かい心で読んでもらえると嬉しいです。
さあ、先輩方が受け入れてくれたところで!(きっと、ね笑) 始まりました!私の晴れ舞台です!笑
まず初めに断っておくと、ここに書く「愛」とは、男女の愛のことではありません。
異性に限定したものではなく、もっと大きく、人を愛することだと考えて下さい。
分かりやすく言い換えると、
関心を寄せること。思いやること。
「愛」とだけ聞くと、何のことだかいまいちピンと来ないかもしれませんが、この、「相手に関心を寄せる」、「相手を思いやる」ということなら、イメージがわきやすいですよね。
「人を愛する」だとなんだか難しそうだけど、「人を思いやる」、「人に関心を寄せる」なら案外簡単かも。自分でもできるじゃん。実はそう思ってたんです。
相手が今何を願っているのか考えてあげて、相手の感情に気づいてあげる。
悩んでそうなら話を聞いてあげるし、応援してほしそうならそっと背中を押してあげる。
これなら自分は自信があるぞ。「人を愛する」ことは得意だぜ!って思ってました。
ところがどっこい、「あれ、これは結構むずかしいぞ」って場面が現れて来たわけです。
いざ自分で実践してみると「人を愛する」というのは簡単ではないということを感じるようになったんです。
もちろん、そんなに難しくないこともたくさんあります。
例えば、自分の調子がいい時、余裕がある時。こういう時は比較的人を愛せます。
じゃあ逆に、どういう時に難しく感じたのか、というと
それは、自分が大変な状況にある時、本当に疲れている時です。こういう時は人を愛するのが難しくなる、というのを感じました。
悩み相談に乗る場合も余裕がある時は、たくさん頷いてリアクションしてあげ、辛抱強く相手の言葉に耳を傾けて、惜しみなく自分の時間を出してあげます。
でも、本当にへとへとの時は、そんな余裕がないんですよね。話すのが遅いとイライラするし、攻撃的な口調や態度になったりするし、適当に話を聞き流したりするし。
「ああ、自分の愛はこの程度だったのか」
そう気づいてビックリしたんです。自分でも結構ショックでした。
しかも、仲の良い人に対してそうだったので、余計自分の小ささを感じました。
そして、振り返ってみたんです。自分は今まで、どんなふうに人に愛されてきたのかを。
そうしたら、ある社会人の方を思い出しました。一緒に教会に通っている、面倒見のいいお兄さんです。
以前、一緒に銭湯に行く機会があってその時沢山相談に乗ってもらったんです。仕事終わりで疲れているだろうに、そんな素振りを一切見せず、私の言葉に耳を傾けてくれました。1時間半くらいお風呂に入って、いろんな話をしてくれました。
でも、全く疲れた様子は見せないんだけれども、目が真っ赤だったのに気づいたんですよね。いくら元気そうに振舞っても体はへとへとなんだろうな、と思って、
「仕事終わりで疲れてるのにありがとうございます。目、真っ赤ですよ。」と言ったんです。
すると、笑いながら「やっぱり、目赤くなってる??なんでか知らないけど、今日ずっと目が赤いんだよねー。」とごまかして、続けて元気そうに接してくれました。
その時は、その凄さがあまり分からなかったのですが、今振り返るとものすごい愛で接して下さったんだと分かります。
本当に大変な状況で、自分が本当に苦しい状況で、どれほど人を「愛」せるのか。
これを考える機会になりました。
そして、御言葉を伝えて下さる牧師先生の凄さを僅かにでも感じることが出来ました。
牧師先生は若いころに、ベトナム戦争に行きました。そして、そこで多くの人の死を目にしたそうです。
自分がいつ死ぬかもわからない。そういう極限の状態を経験し、ある時は、ほんの数メートル先の敵兵に銃を向けられたこともありました。
自分が撃たなければ、相手が撃つ。銃を撃てばどちらかが死ぬような場面です。
そんな時に牧師先生はどうしたのか。
「私は敵を愛したんだ」と仰いました。
自分の命が失われるかもしれない。そのような状況で、先生は銃を捨てて駆け寄り、敵を抱きしめたのです。
そして、2人とも生きることが出来ました。
普通に考えるなら、最悪の場合2人とも死ぬ、あるいはどちらか一方が死んで一方だけ生きる、という場面。
そんな中、「敵を愛する」ことで2人とも生きたんだ、という話を聞きました。
これを聞いたときは話の壮大さに驚いたし、どれほどの愛なのかと衝撃を覚えました。
どこまでも神様の御言葉を行い、神様の御心を成そうとする牧師先生。
そんな先生から御言葉を学べているのが自慢だし、私ももっと人を愛せるように御言葉を実践していきたいです。
長くなってしまいましたが、最後まで読んで下さってありがとうございました!
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(マタイによる福音書5:43-44)