「時計のように生きなさい」


「時計のように生きなさい」

 こんにちは、cacaoです。まだまだ暑い日が続いているこの頃、今日は涼しい滝が流れる牧師の故郷・月明洞(ウォルミョンドン)が思い出されて、その月明洞と、ひたすら神様の御言葉を実践する牧師について書いてみたいと思いました^^

目次

牧師の祈りについて

 チョン・ミョンソク牧師は、本当によく神様に祈ります。明け方の祈りから始まり、朝、昼、晩と欠かすことなく祈り、時には本当に長い時間祈るときもあります。
 神社などの前で、パンパンと手をならして、その時だけわずかに祈る私たち日本人にとっては、何をそんなに祈ることがあるのだろうかと不思議に感じるところですが、牧師は自分や教会のことだけでなく、民族のこと、世界のことまで広く細やかに、神様と対話しながら祈ります。
 その祈りは、幼いとき、戦争でまず自分が食べられないという苦しさの中で始まり、そして深く祈る中で、もっと祈らなければならないことがあるとわかって、時には山に入ってずっと長い期間そこでお祈りし過ごしたこともあるほど、世界中の様々なことについても深く祈ってきました。また、その中で、祈りを通じて神様から聞いたことをまず自分が実践しつつ、そして私たちにも教えてくれます。

神様の御言葉、時計のように生きなさい

 神様の言葉を「御言葉」といいますが、深く祈る中で、牧師が神様からもらった御言葉を、牧師は私たちにも伝えてくれます。また、何よりも牧師自身がその御言葉を実践します。
 その一つに、「時計のように生きなさい」というものがあります。
 人が見ていても見ていなくても、自分がやるべきことをどんな環境に置かれても、変わらず動いている時計のようにやるべきだ、と。神様に深い祈る中で聞いた御言葉の一つです。
 私もですが、やはり人が見ていないところであれば、人はついつい力が抜けたりでやらなくなってしまうことが多いですが、でも牧師は先に話したように、小さい頃からどんな環境であっても、神様に祈ることをやめませんでした。
 ずっと続けて、自分のための祈りから始まった祈りが、今は全世界のための祈りにかわって、いつも、誰が見ていてもいなくとも、ただ神様に祈り続けています。
 また祈るだけではなく、その御言葉を実践することについても、牧師の実践力には目を見張ります。

故郷・月明洞の開発

 牧師の故郷である月明洞は、韓国地図のほぼ中ほどに位置していて、最初は電気も通っていなかったような寂しい田舎だったので、牧師自身も嫌だと思って都会に出たいと思っていたそうです。しかし礼拝やイベントをする際、都会で借りた会場などはいつも終わりの時間を気にしなければならず、神様に思い切り栄光を帰せないので、皆が時間を関係なく思い切り神様に栄光を帰せるようにと、自身の故郷の月明洞を開発することにしました。
 当初、山と畑と牧師の古い家しかなかった月明洞ですが、牧師自身が先頭に立って、神様に祈りながら、朝から晩まで土を堀りつつ進めていたところ、ある日、神様が神様の構想を下さったそうです。その構想をなすため、業者も嫌がったような巨大な岩を、自分たちで一つ一つ立てなどし開発しました。そして現在では、自然豊かな山の中に、突如、高くそびえたつ岩々と木々、管理された松、美しい芝生、そして池と3つもある滝が勇壮に並んでいる姿を見ることができます。一つ一つも雄大なのですが、それらが一つになってある優美さと勇壮さを見ると、ため息が出るくらいです。神様の構想であることが頷け、その中で喜んで神様に栄光を帰せることが本当に素晴らしいことだなと感じます。
 また、私たちが月明洞に行く度に、より一層整備されて、依然とは違った、更に見違える姿になっているところが多く、いつもその変わりように驚きます。
 まずどうすれば神様が喜ばれるか、そして人が喜ぶかを牧師はいつも考え、いつも時計のように行っているのを見てきました。

  *上2つ:開発前の月明洞、下3つ:開発後の月明洞 
  出典:キリスト教福音宣教会 月明洞(ウォルミョンドン)紹介サイト〜世界一大きな自然の教会〜

 また、それはコロナ期間中も同じで、感染対策の観点から月明洞へ行くのが難しくなりましたが、牧師は誰も来れなくなった月明洞でも、今度また皆が来た時のためにと、変わらずいつも神様、イエス様に祈り相談し、運動場の排水工事を本格的にしたり、山道を人や車が通りやすい舗装された道に新たに作り替えたりと、その手を止めることがありませんでした。

 *新しく舗装された山道だったところ
 出典:キリスト教福音宣教会 月明洞(ウォルミョンドン)紹介サイト〜世界一大きな自然の教会〜

神様、イエス様、皆のために苦労を厭わない姿

 私が以前、月明洞を訪問した時、ちょうどイベントがある日でしたが、牧師は朝早くから月明洞の色々な場所を足早に回っていました。いつの間にかその姿が消えて、また今度は別の峰の上から下って来たり、まさに神出鬼没状態でした。いつの間にそんなに移動したのかと思いつつ見ていると、前日に雨が降ったため、これから来る人達が座るであろう椅子や岩々の場所をきれいに掃いて拭くように指示して、自分も一緒にそう作業していることが分かりました。
 その前日も遅くまで会場の準備があって、牧師自身も作業していたと聞いたのですが、開催当日も自身がこれから御言葉を伝える際に、一番長く立っていなければならないにも関わらず、神様、イエス様、そしてここに集まってくる人達のために、まさに時計のように朝早くから惜しみなく走っている姿を見ました。そんな牧師の姿を通じて、神様、イエス様の愛や品性、人格(神格?)を感じ、このように神様、イエス様が自分たちを歓迎して迎えようとしてくれていることを私は感じました。

 時計のように生きなさい、と御言葉で伝えるだけでなく、どんな時も何歳になっても、変わらず自身がまず実践して走っている姿、牧師自身がその言葉通りに生きている姿を見て、より一層、伝えるその言葉に、重みと深みを感じざるを得ません。

 今日も読んでくださってありがとうございました

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

東京在住。
大変田舎から東京へ出てきて早20年以上。
学生時代はずっと何かしらスポーツをやってきていて、やっと自分はもしかして脳筋だったのかも…と数年前に気づきましたが、神様と教会の方々を通じて芸術面の目も開け、絵画やクラシックを鑑賞することも大好きになりました(*^^*)
様々な面を成長させてくださることや、立ち返ることができる場所を下さっている神様に感謝しています。

目次