お久しぶりでございます。また期間が開いてしまいました…というのも、卒論提出に追われておりましてタイムマネジメントを上手く行うことが出来ませんでした…でも!先週無事に提出できたので結果オーライです!
さて今日は、先週の説教の方向性である『時』について考えていきたいと思います。
- 「新しくする」ことが前提にあっての『時』
- 「時」と「期間」と「期限」
- 神様の「時」
- 「時」を守るために
- 「新しくする」ことが前提にあっての『時』
ひとつ前の投稿で、新しくすることについて書きました。知っておいて欲しいのは、この「時」を守ると言うことも新しくするために行うものだと言うことです。今年の初め、新しくすることについて説教してくださった時に牧師先生は、ハッキリとこう仰いました。
「ピッタリと付いて来さえすれば新しくなる、その方法は1年を通して教えてあげる」
つまり、その時々伝えられる説教の方向性を忠実に守り、神様が教育してくださる通りに付いていけば「無条件新しくなれる」と言うことなのです。まさに、創刊号だけ破格の安値でお馴染みデ○ゴスティーニのように、毎週与えられる御言葉というパーツを元に、自らを作り上げる事によって最終的に新しい自分を完成させることが出来るのです。そこで、新しくなるためにこの週にすべきだったのは「時」をわかり、守ることだったと言うのを知らなければいけません。
- 「時」と「期間」と「期限」
「時」と言っても具体的にどのような「時」なのでしょうか?まず「時」には、『期間』と『期限』があると言います。
『期間』は、1日、1ヶ月、1年といった一定の時間の区切りのことを指すでしょう。
『期限』は、文字通り「期間の限界」つまり、時間の終わりを指します。
小学校、中学校…、大学、社会人と言うように、物事には全てにおいて「期間」が存在します。それと同じだけ「期限」が存在します。当たり前のことを言うようですが、「期間」を過ごすと「期限」が来ると言うのが「時」を治める上での基本法則だと考えます。小学校を卒業した人が再び小学生になることが出来ないように、「期限」を迎えるとデロリアンでもない限りまた同じ「期間」に戻ることはできません。「小学生の時からもっと勉強をしとけばよかったな」と今思ったとします。いくらランドセルを背負って、黄色い帽子を被って勉強したとしてもそれはただのコスプレに過ぎず、幼気な小学生の時の自分も当時のかけがえのない時間も二度と戻ってこないのです。(少し話がずれましたが…)だからこそ、終わりがきてからでは取り戻すことの出来ない貴重な「期間」にどれだけ必死で取り組めるかが重要なのです。「期間」の行いによって、「期限」の運命が左右されます!その「時」を生かすも殺すも自分次第なのです。
- 神様の「時」
ボクたち人間に平等に「時」が与えられているように、神様にも「時」があると言います。しかし、人間の時と神様の時は、同じでありながら異なる、らしいです。ではどう言うことなのでしょうか?
同じ点としては、神様にとっても1日は24時間であり、1年は365日であって、人間の時と一致します。
まず挙げられる大きな違いとして「有限」か「無限」かがあります。ボクたち人間にとっても毎日止まることなく時間が流れていて、そう言った意味では無限のように思えますよね。しかし、ボクたちは仕事や学校で就業時間が決められ、遊ぶ時間が決められていますし、何より睡眠の時間があるので有限な時間の中で生活しています。一方で神様は、寝ることもなくいつもボクたちを見守っているそうです。ボクたちが寝ている間も働かれて、途切れることない時間の中で生活していらっしゃいます。
もう1つ今回強調して伝えたい違いは、「神様の時は絶対かつ逃したら終わり」だと言うことです。「人間も同じじゃないか」とお思いかもしれません。例えば、ある日までに提出しなければならないレポートがあったとします。うっかりしていて提出を忘れてしまいました。しかし、教授に頼み込んで、土下座でもなんでもしてお願いしたところ情状酌量で提出を認めてもらいました。(社会はそんなに甘くないと思いますが…笑)と言うように、人間の場合は時として「期限」を逃しても許してもらえたり、またすぐに機会が巡ってきたり、違う方法で出来るようになったりともう何も手の施し様がないほどに、終わりということは滅多にないかと思われます。しかし、神様の「時」は絶対なのです。例えば、神様が、「今日はお寿司を食べる!」と仰ったなら、絶対に今日お寿司を食べます。そこに「やっぱ気が変わったから、明日にしよう」などはなく、極端な話そこでお寿司を食べられなければ、一生お寿司を食べることは出来ません。仮にまたチャンスが巡って来るとしてもそれはウン十年後とかのレベルなのです。それほど極端なまでに正確かつ絶対性がある時間です。
- 「時」を守るために
ではこの絶対的な神様の「時」を逃さないためにはどうすれば良いのでしょうか?具体的に3つ挙げたいと思います。
- 説教を聞く
- 準備する
- 「時」が来たらそれだけに集中する
- 説教を聞く
言葉通り、牧師先生が伝えてくださる説教を聞いてその通りに必死に行うと言うことです。しっかり聞いてその時々の神様の方向性をわかることで、「時」に合わせた正しい判断が出来る様になるし、小さな機会も逃すことがありません。
2.準備する
せっかく説教を聞いて今やるべきことがわかったのに、「少し休んでからにしよう」とか「明日やろう」とか怠けていては出来るものも出来ません。神様は一人一人の性格や状況に合わせて「時」を準備して下さっています。ボクに「お寿司を食べなさい」と仰る「時」は今日で、あなたに「熱海に行きなさい」と仰る「時」は明日かもしれません。いつ来るか分からないから、その来るべき「時」に向かって、ご飯を炊いたり、パッキングしたりふさわしい準備をしなければいけません。
3.「時」が来たらそれだけに集中する
いざ、神様が「時」を下さったなら、他のことは一旦おいてでも「ここだ!」と集中しなければいけません。「あ、ちょっと一瞬トイレ行ってきていいすか?」とか「今日映画見に行く予定なので明日でもいいですか?」と言いているうちにあっという間に「時」が過ぎ去ってしまい、悔やんでも悔やみきれません。だから、どんなにお腹が痛くても(あくまで喩えなのでちゃんとお手洗いは行ってください笑)、どんなに銀魂を見たくても与えられた「時」だけを見て今やるべきことに集中しなければいけません。
今回は「時」についてまとめましたが、ボクの所感というよりは随分と説教の要約のようになってしまいました。しかしまだ網羅できていないことがあるほど深い内容でした。ボク自身、幼少期から親にグズ、ノロマと言われ続けたきたタチなので「時」を逃さないようにより気を付けていきたいと思います。また実践したことなど、近くお話しできればと思います。
来週に続く
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