どうも!お初にお目にかかります!というか、目を通していただいてありがとうございます(笑)こちらは天運教会に通っている男子学生であります!
今日は神様との思い出について書こうと思います。
どういう風に神様と出会って、信仰を持つようになったのか。わたくしの実体験を正直に書いてみようかと。かなり正直に書きました(笑) その結果スーパー長くなっちゃいました(汗
それでは、私の思い出の世界へどうぞ!
神様との出会い
実は神様との出会いはかなり早いです(笑)母が海外出身でクリスチャンということもあり、幼稚園の頃には神様という存在も、聖書も知っていました。幼稚園もキリスト教系の幼稚園でした。(中高は儒教系の中高一貫校へ)
「あ、この子は小さいころから信仰を持ってるタイプかな」と思った、そこのあなた。中々鋭い指摘ですね。ところがどっこい、そうではないんです(笑)母から聖書の話を聞いた幼稚園の頃の私はマジカルな聖書が受けいれられず、序盤からもう聞きたくないと反発しました。日曜日に母とミサに行くときも、教会には入らず、教会の空き地でサッカーをしたり遊んだりしていました。
そして世間で”ハーフ”と呼ばれる私は反抗期に、母親のルーツを全否定して一切を捨て去ろうと、むしろ日本人としてのアイデンティティを強くしようと頑張っていたわけです。自分で祈ったこともほとんどないし、聖書の内容も詳しく知らないし。高校生の時、生物の授業で先生から急に「お前、宗教はなんじゃ」と(ピンポイント個人指名で)聞かれた時も、自分は無宗教だと答えるようになっていました。
1秋で大学を休学
さてさて、皆さんが一番気になっているであろうこの話題(笑)
受験期に後期試験の面接に向けて自分を色々と振り返ってみたとき「このままじゃだめだな」と思うようになりました。社会を見てみると若者は「自信が無い」「やりたいことが分からない」って悩んでいるし、大人は「楽しくなさそうに働いてるな」ってのが正直な感想でした。(生意気なこと言ってすいません、若気の至りだと思って頂ければ…)そんな現状を見て自分はそんな風になりたくないと強く思いました。
エンジン全開の大学生活
そういうわけで、最初から「できることはもう全部やってやろう」と思っていました。授業初日から教授に「自分、こんなことしたいんです!!」って熱く話したり、面白そうなイベントに参加しまくったり、大学のゼミだけじゃなく他大学のゼミにもお邪魔してみたり。
「オレはこんなところで止まってらんねえ!!」そう思ってました。だから最初から走り抜けなきゃ。止まったらやられる。そんな感覚が自分の中にあったんです。他の人は大丈夫でも、自分は大丈夫じゃない。自分は一生懸命頑張って認められないといけない。
誰に認められないといけないのか、誰と戦っているのか、分からないんだけど、自分は絶えず武器を磨いておかないと「やられる」。なんだかそんな焦りが付きまとっていました。(これについてはまた今度。)
理想を追い求めて
「やりたいことがわからない」って感覚はものすごく分かります。めっっっちゃ共感できます。否定され続けたらそりゃあそうなるわ、って思ってました。個人的にも今まで何かと否定されることが多かったし、出る杭は打たれる日本の雰囲気はあんまり好きじゃなくて。
だから、自分が作ってやろうと思ったんです。「自分のやりたいことが見つかって、自分でもやっていいんだって思えて、それを実際に行動に移す場所がある」。そんなコミュニティを作ろうとあくせくしてたわけです。
表れ始める綻び
「やっぱりこのままじゃだめだ」。思い切って休学もしてみました。自分の思った通りにやってみよう。好きなことをやってみよう。でも、いざやってみると全然自分の思った通りに行かず…。プロジェクトもうまくいかないし、そもそも生活が苦しいし。(休学すると親に話した時から仕送りも止まり、家賃も自分で払っていました)
このままじゃだめだってのは感覚的に分かるんだけど、じゃあどうすればいいの?ってのが全然わからなくて。手当たり次第にいろんな活動をしました。一年間を棒に振るんじゃないかという焦りもありました。中国地方に行ったり関西に行ったり東北に行ったり、いろんなところに行きました。お金がなくても、ヒッチハイクで行きました。
悩みの日々
イベントに参加するときは「これかもしれない…!」と希望が湧きます。でも、「果たして、本当に、これでいいのだろうか?」自分に問うと気持ちは晴れませんでした。どれだけイベントが楽しくても、三日後には虚しさが襲ってきました。
自分の人生こんなので大丈夫だろうか?こんな生き方でいいのか?不安は尽きませんでした。いったい自分はどこに向かっているのか、その答えも分かりませんでした。
聖書の言葉
アモス書8:11-13
主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。その日には美しいおとめも、若い男もかわきのために気を失う。……
初めてこの聖句を読んだ時の衝撃は今でも覚えてます。「ああ、この書物はただものじゃないな。」そう思いました。まさしく自分は人生の答えに飢えていたし、それを求めようとこなたかなたへ彷徨っていたわけです。そしてそれが得られなかったわけです。
今になったら分かります。探し物をするなら、それがあるところで探さないと見つからない。魚釣りも魚がいるところでしなければ魚が釣れないように、人生の答えもあるところで探さないと見つけられない。
まとめ
そんな紆余曲折があって、今は信仰生活を送っています。神様のもとに、「帰ってきた」という感じですね(笑)今回は神様との思い出、聖書について学ぶようになった経緯について書きました!長くなりましたが、最後まで読んで下さってありがとうございました!