記事を書いた人:Mana東京在住。
幼いころから母が英語やキリスト教の絵本の読み聞かせをしてくれたことをきっかけにイエス様を知った。
中高でミッションスクールに通うようになり聖書は身近な存在だった。
しかし6年間の聖書の内容や生き方について疑問があっても学校の先生はスッキリするような答えを言ってくれなかった。
大学生の時に摂理で聖書について丁寧に教えてもらってからは、摂理の教会に通おうと決めた。
現在、私の仕事は人の健康サポートを通して元気な子育て世代の大人と子供たちを増やして天国のような家庭を増やすことです。
私とキリスト教との出会い
私は幼いころから母がよく英語を教えてくれました。夏休みは家族でハワイやアメリカ、オーストラリアに旅行に行くたびに母は現地の本屋さんに寄って英語で書かれた絵本を何冊も買って帰り、私に読み聞かせをしてくれました。
海外に行くと本屋さんには聖書や子供向けの聖書、イエス様の物語の絵本も沢山並べてあります。
母が小学低学年の私にイエス様の物語を読んでくれて、「私はイエス様って人がいるんだー!こんな奇跡を起こせるんだー!すごい!」と思ってイエス様を信じるようになりました。
その頃から母は英会話学校の先生の一人から近くで通える教会を紹介してくれて7―8歳の私と共に隣町の教会へ何度か車で行くことがありました。
教会に通う人たちはみんな優しくて私は教会の子供たちと遊ぶのが楽しかった思い出があります。しかし隣町まで母が運転して通い続けるのも大変だったので続くことはありませんでした。
学校での聖書の学び
時が経ち、私は中学受験をへて第一志望の学校に入学することになりました。
その学校はミッションスクールで毎週聖書の授業が必須でした。
辞書のようだなーっと思った聖書を本格的に授業で読むようになり中高6年で聖書を通して教訓を学びました。しかし6年も経つと気づいたのは、学校の聖書科の先生たちやキリスト教の教科書で焦点を当てているのはほんの一部で分かりやすい教訓ばかり繰り返し教えていたことでした。
生きる意味について
高校生になったある日の聖書の授業。学校の先生はクラスの皆に「生きる目的は何か紙に書いてみなさい。」と言いました。
そして生徒達はそれぞれが考える生きる目的について書き出して全員がそれぞれの意見を分かち合うワークをしました。
クラスの端っこの席から順番に意見を言うのですが意見は本当に多様でした。
私は密かに皆が意見を言った後に聖書の先生なら神様が与えた人生の目的は何か答えを言ってくれるんじゃないかと期待していました。
しかし聖書の先生は最後に「私にも分からない。生きる目的って何だろうね?」と言ったときに内心ショックを受けました。
そして疑問が募ったまま高校時代を過ごしました。
カルトに洗脳されないために
学校の授業で学んで良かったことはキリスト教を名乗った団体に洗脳されないための教育でした。
学校の先生はカルト教が実際に行なって来た洗脳の仕方をあえて教えることで生徒たちが騙されないようにするために教えてくれました。
よくある例はカルト教の信者が家を一軒ずつ回り、玄関先まで出てきてくれた人と長話をして個人情報を詳しく聞きだし音声を録画してカルト教の教祖らしき人に情報を伝達しておきます。
そして信者が教祖は何も言わなくてもあなたのことは何でも知っていますと聞かされます。教祖は事前に個人情報を聞いているので、本人に会って話す時にあたかも自分の霊感で知ったかのように言い当てて人を信じさせるのです。
さらに団体で行く旅行のような企画に誘われて連れて行かれることもあります。企画のセミナーなどの最中に信徒たちからあなたは駄目な人間であることや、このままでは人生の希望は無いなどと人を心配させるような言葉をかけて思考停止になるまで言葉をかけるそうです。
特に洗脳しやすい状態に入る方法の一つが睡眠不足にさせる事。
合宿のような形式を組み、睡眠時間を減らして判断力を低下させることで洗脳しやすくなるのだそうです。私にこの教えが役に立つ日が来るのか当時は分からないままカルト教はこのように洗脳するのだと頭には入れておくことにしました。
大学生になって摂理で聖書を学ぶ
私が大学2年生のころに摂理の教会に通っている同じ大学の女子大生に出会って、聖書を学ぶことになりました。
私は大学生になってからは英語をもっと学ぼうと頑張っていたものの、なぜ頑張らないといけないのか?生きていて小さい目標を立てて頑張っても意味も甲斐もないので心が空っぽに感じることが多かったです。
今振り返ると、当時の私はより良い人生を生きるためにとりあえず目の前のことを頑張っている感じでした。
頑張っているとそんな自分に安心感を抱けたりするものの、根本的な生きる甲斐が感じられないために力が抜けるなぁと悩んでいました。
また周りの学生や大人たちを見ても本当の意味で人や個性を大切にする繋がりが社会には無いのではないかと大学生になってますます希望を抱けなくなっていました。
心のどこかでは社会人になっても素晴らしい環境で輝ける世界に居られたらと考えるようになりました。
そんな中で聖書を学べるところがあると聞いた時に、私は中高で6年間授業で学んだにも関わらず聖書を一読すらしておらず、部分的にしか勉強してこなかったことを思いだしました。
聖書を正しく学ぶと人生の味が感じられるようになると聞いてとても興味を持ちました。
そしてチョンミョンソク牧師が伝えてくださってる聖書の教えを学ぶことになりました。
私が今まで色んなキリスト教の牧師さんの説教を聞いてきた中でもチョンミョンソク牧師は他の方とは違って幼いころから貧困や人生、人間の価値など多くの人が直面する苦悩を経験されている所に驚きました。
また神様に文句でも言いたくなるような状況でも神様に祈り、聖書を読みながら生きる姿に感動したのを覚えています。
どうせ説教を聞くなら多くを経験した人から人生を学びたいと思いました。
キリスト教の学校に6年通ったにもかかわらず、摂理では私が読んだこともないページの聖句について話してくださりました。理論的にではなくて、聖書を通して神様からのメッセージを受け取って心が感動し、生きることに感謝が沸き上がるような御言葉を伝えてくださいました。
そんな楽しく有意義な聖書の学びを経て私の方からこの教会の礼拝に参加したいと言って摂理の教会に通うようになりました。
チョンミョンソク牧師から学ぶ間も教会に通うメンバーからカルト教のような怪しい行動や教えはありませんでした。
むしろ私がミッションスクールにいた時はクラスメイトを気にしていたので神様を信じていることや賛美をしてみたいという思いがあっても表には出せずに過ごしていたのですが、摂理の教会に通っている人たちは自分たちが好きで賛美をして礼拝を捧げている姿を見て感動しました。
その日から今まで摂理の教会に通っています。