イエス・キリストについて学ぶならば

イエス・キリストについて学ぶならば、私は、キリスト教福音宣教会の鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師に学ぶことを自信を持っておすすめします。

鄭明析牧師(以下、教会の人たちが呼ぶ通り「先生」とします)は、「聖書そのもの」に対する疑問にとことん向き合い、聖書で「言わんとしていること」を知ることに10代、20代の青春を捧げました。

新約聖書に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。(マタイによる福音書7章7節)」と書いてあるとおり、先生は聖書の疑問が解けるまで徹底的に祈り求め、聖書をくまなく繰り返し読んで2000読以上に至ったといいます。

そして、聖書の疑問の答えが、聖書自体の中にあることを発見し、最終的に、先生が解きたかったすべての疑問の答えを聖書から見出したのです。21年の修道生活を経て、先生は聖書について体系的にまとめ、人々に教えるようになりました。

聖書が言わんとしていることが何なのか?イエス・キリストはどういう存在か?一人でも多くの人に伝えるため全国、世界をまわるようになりました。現在世界70ヶ国に広がったキリスト教福音宣教会によって、先生がまとめてくださった聖書講座が世界各地で日々伝えられています。

先生は今も続けて聖書を通してさまざまな問題の答えを祈り求め、さがし、天の真理の門を叩いて開けてもらうこと、与えられた答えを宣べ伝えることに心血を注いでいます。

先生の人生については公式サイトもご覧ください。

https://www.j-cgmr.net/

聖書のなかでイエス・キリストは「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」と言っています。(ヨハネによる福音書5章39節)

先生は、幼い時からイエス・キリストを慕う純粋な心で「イエス様ならどう思われるだろう?」「イエス様ならばどうなさるだろう?」と常に祈り考えてきました。イエス・キリストについて知るために、誰よりも聖書を研究し、その教えどおりに生きることに心を尽くしました。山の洞窟で祈る修道生活の中で、イエス・キリストが夢や幻で現れて下さったといいます。先生はイエス様を信じる人みんなにイエス様がそのように現れて話して下さるのだ、と思っていたそうです。

その先生が語るイエス・キリストは、現代を生きる私たち一人一人にも、生き生きと語り掛けるリアルな存在であり、生活の中でぶつかる些細なことから人生の深い問にいたるまで、限りなく深い神様の愛を持って誰よりも納得のいく答えをくれる存在です。

先生によって、私は本当の意味でイエス・キリストに出会いました。

私は元々、日本人として神道の家に生まれ、祈りと言えば、神棚の前や神社(お寺でも)などで手を合わせて祈る程度でした。イエス・キリストといえば、遠い異国の聖人で時間的にも空間的にもあまりに遠い存在、そもそも実在したのかも定かでない・・・と思っていました。

そんな私が聖書やイエス・キリストについて知りたいと思ったのは、マザーテレサやマルティン・ルーサー・キングなど、キリスト教の信仰によって損得や利害を超越した真実な生き方をした人たちに惹かれ、そういう生き方の根底にある聖書、キリストという存在について純粋に知りたかったからです。

たまたま大学がキリスト教系だったので、自由参加の大学の礼拝に積極的に参加し、壇上に立つ牧師の方々や宗教学の教授などのお話に期待を持って耳を傾けました。でも、根本的な疑問が解けず。〝世界のベストセラー聖書″に何が書かれているのか?自分なりに消化したかったのですが、聖書自体の難解さという大きな壁、「素朴な疑問をぶつけること自体がそもそも不信仰」という無言のプレッシャー、逆に信仰無い人間にも親しみやすくするためか、聖書を引用しつつ人生経験や持論を聞かされてがっかり・・・など、もどかしい思いをかかえていました。

そんなある日、大学の友人から偶然、「韓国の宣教師さんに聖書教えてもらって面白かった!」と聞き、紹介してもらいました。そこで先生に直接学んだ宣教師さんに聖書を教えてもらったのです。

先生の聖書講座を初めて聞いた時から、「こういう話が聞きたかった!」と胸につかえていたものが取れる思いがしたことを覚えています。「聖書全体が見えている人の話だ!」と感動し、新鮮で、文字通り「目からウロコが落ちる」学びの連続でした!

私がはっとして、強く心に残った先生のエピソードがあります。

9歳から聖書を読み始め、イエス・キリストが「再び来る」という預言に胸を膨らませていた純粋な先生。そんな先生が教会で人々が祈る様子を見たら、願いごとや罪の許しなど、自分のことばかりを祈って、心の重荷をどっさりとイエス様の前に置いては、スッキリして帰っていくばかりでした。

10代の少年だった先生が心を痛めて「自分は幼いしできることがないけれど、イエス様のお手伝いをしてさしあげたいです。わたしにできることがあったらお手伝いさせてください。」と祈ったといいます。

先生自身、貧しく、人生に希望が無く、救いを求めて祈らなかったわけではありません。しかし聖書を通してイエス様に学び、自分がどんな人生を生きたいのか?つきつめて考えた結果「イエス様のお手伝いがしたい」という結論に至ったというのです。

少年の頃からの純粋な心のままイエス・キリストを慕い、「本気」でその考えと行ない、生き方に習おうと心を尽くす先生の姿は、45年間、多くの困難のなかでも変わることがありませんでした。むしろ普通の人には耐えがたい困難のなかでこそ、その真価が明らかになっていきます。

今後も、私が先生に学び感動を受けたイエス・キリストの姿や、本気でイエス・キリストの願う人生を生きようともがいてきた先生の姿をお伝えしていけたらと思っています。

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この記事を書いた人

天運教会に通う主婦。家族は夫と子ども(成人)2人とうさぎ。教育関係の財団職員、派遣事務職等を経て最近心理カウンセラーの資格を取得。たまに教会で聖書の講師もしてます。動物大好き、お散歩、寝ること大好き、健康オタク(?)

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