初めて信仰を持った時の話で、摂理メンバーとの出会いについてはこちらをご参照下さい。
そのメンバーと出会った年の夏休みに高校の時の友人と1週間のアメリカ旅行を元々予定していました。ニューヨークとその周辺です。
当時はデジカメもスマホも無い時代でしたので、データとして当時の様子の写真は残っておらず、いわゆる使い捨てカメラと言われていたレンズ付きカメラのみに記録を残していました。
摂理のメンバーと出会ったあと、私は予定通りにアメリカ旅行に行きました。その旅行中に、貿易センタービルの屋上に上り、そこから眺める景色を写真に収めていました。とっても高くて驚いたのを覚えています。
また、友人に誘われてその旅行中にブルックリンにあるキリスト教の教会に日曜日に訪問しました。そこで初めてキリスト教の教会や礼拝というものを目にしました。
その時に英語でしたので、どのようなことを話しているかよくわからなかったのですが、按手お祈りを受けました。頭に手を置いて祈ってくれたのですが、なんだかすごい衝撃を受けたのを覚えています。
そんな経験をしながら8月末に帰国し、帰国後に出会っていた摂理のメンバーと会う約束をしていましたので会いに行きました。そこが私が初めて訪問した摂理の教会でした。
そこで、旅の思い出話をしたりしながら過ごし、どんな活動をしているか紹介されたりしました。色んな話の流れで賛美を聞いたり、一緒に知っている歌を歌ったりしたのを覚えています。
その時に聞いた賛美は、その後の人生で好きな賛美の1つになりました。よくギターの弾き語りをしていました。
とても素敵な人達で、短時間でとても仲良くなり、楽しい初の教会訪問となりました。
そんな出会いを経験しながら大学の下宿先に戻るようになりました。そんな矢先、一緒に旅行に行った友人から連絡がきて、テレビで凄いことが起こっていると言われて、テレビをつけて背筋が凍るような衝撃的な映像を目にするようになりました。
そう、あのアメリカ同時多発テロ事件です…
あの襲撃を受けたビルの屋上にわずか2週間前に自分は立っていたのですから…
こんな衝撃的な出来事があった年に初めて摂理の教会に訪問していたのは何か意味を感じるしかなかったです。
わずかの差で生かされた意味を考えるしかなかったです。
神様は自分に何を期待し摂理に出会うようにしたのか?自分は一生かけてその期待に応えていく必要があると思っています。
歴史を学ぶと、なかなか一言で解決できる問題ではないことはご存知の通りかと思います。誰が悪いとか良いとかも言い難い問題かと思います。
とはいえ、人の命を害する行為は許されるものではありません。亡くなった方、その遺族の方には哀悼の意を捧げます。
私は聖書で学んだ、イエス様の愛と精神が憎しみと争いの連鎖を止められる方法と考えています。特に、イエス様が十字架にかけられながらも実践した「許し」が本当に大切だと感じています。
どこかで誰かが先に許すことで、その連鎖を止められると信じています。もちろん、それを実践することはとても難しく、理想論で、現実的ではないのかもしれませんが、鄭明析牧師がその実践をし続けている姿を目にしましたので、人間には可能であるはずと信じています。
9月になるといつも思い出す出来事です。許す心が世界中に満ちて、世界に平和が訪れることを祈ります。そして、まずは自分から許すことを実践していきたいと思います。



