聖書はとにかく人間👫のことが書いてある📖 その神様の愛に驚いたこと

こんにちは、cacaoです。
私が聖書を学びだして早20年ちょっと。
それまで聖書は全く読んだこともなく、「イエス・キリスト」とはもちろんイエス様のフルネームだと思っていた無知な私が、カバーをとった聖書の黒い表紙がいかにも何か怪しい経典っぽい、と思っていた失礼な私が、聖書は神様からのラブレターだということを実感するようになった経緯を今日はご紹介したいと思います^^

目次

聖書の中身

 聖書を少しでも読んだことがある方なら、聖書に何が書かれているかわかるかと思いますが、ざっくりというと、神様が人間を創造してからの歴史です。
 その中にはよく名前を聞くであろうモーセやヤコブ、ヨシュア、ダビデ、ソロモン、そしてイエス様の他にも、多くの人物が登場します。それらのその時代、その時代の人たちと神様と関係や出来事が書かれたものが集まった歴史書です。
 私は最初、神様からのラブレターだというので、「○○が愛しい」とか「好きだ」とか書かれているのかと思ったのですが、全く違って読むのも難しい分厚い歴史書でした。。。
 それでもラブレターだといわれる理由について、後々私も分かるようになった経緯です。

 聖書には、沢山の植物や動物が出てきます。
 植物ではからし種、麦、いと杉、いばら、ぶどうの木などや、動物だと魚、羊、牛、豚、犬、ロバ、クマバチなど、様々なものが書かれています。
 私は、聖書を学び始めたときは、その文字通り、ぶどう、魚、羊、牛のことを考えていて、ただ随分色々なものについて書かれてあるのだなと思っていました。またその内容から、聖書は読むのが難しい本なのだな、と感じていました。

聖書は聖書でとく📖

 そのような聖書ですが、御言葉を教えてくれたチョン・ミョンソク牧師自身も、神様、イエス様のことが知りたくて、聖書を何度も何度も読んだそうです。

 牧師は兄弟が多く、やっと戦争が終わった後の田舎でとても貧しく、牧師自身も家の田畑のことを忙しく手伝いながら、それでも神様、イエス様のことを知りたくて、その合間合間でずっと聖書を読み、時には牛に田畑をひかせるとき、その牛のお尻に聖書のページを貼り付けてまで読むなど、その通読数は2,000回以上にものぼるとのことでした。

 しかし、現在、様々な研究が進んだ科学と聖書の内容が合わないように思えるところも沢山あり、どう考えればよいのか、考えすぎて頭が痛くなって、ついには聖書を地面に埋めてしまったこともあったそうです。でも牧師は、それでもやはり神様・イエス様のことを忘れることができなく、再度聖書を掘り起こして読んだそうです。

 そうやって神様・イエス様に答えを求めながら何度も聖書を読む中で、牧師は、イザヤ書 34章16節の「あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。」の聖句を見つけるようになりました。さらに、聖書を覚えるほど何回も読んだことから、聖書のあちらとこちらに同じような内容が書いてあることに気づいたそうです。
 それらのことから、聖書は聖書の中に連れ合いが合って、それらが解く鍵であると、神様・イエス様に求めながら何度も読む中で悟ったそうです。

夜はローソクの火を頼りにしながらも繰り返し聖書を読んだ牧師。

聖書にはとにかく人間👫のことが書いてある

 また、聖書をそのように解くと、聖書に沢山出てくる植物や動物は、確かにそれ自体をさすこともありますが、そのような人、というように、人間をたとえていることが多々あります。
 何故たとえ、比喩を使うかというと、羊のような人、牛のような人など、それにたとえたものの性質から、その人がどのような人かより分かりやすくなるためと、イエス様の当時は、よりにもよって神様を待っていた人達自身が自分の認識観を正しくできなくて、イエス様をあまりにも大きく迫害したので、分かる人にだけ分かるようにイエス様は比喩を沢山使って当時話をしたのでした。

 聖書の中の様々なものが、実は比喩で、人間を指していることが多いことを聞いたとき、私は、聖書には牛や羊や豚のことなど色々と書いてあるけれど、神様、イエス様が本当に書きたかったのは、羊でも牛でも犬のことでもなく、結局は人間についてのことばかりで、神様、イエス様が本当に人間を大事に思っているのだと、深く感じたのを覚えています。
 また、聖書は時代も異なった多く人によって書かれているのに、あちらとこちらで合わせたときに辻褄があうのも大きな驚きで、それはまさに偶然ではなく、イザヤ書 34章16節にあったように、「これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。」からなのだと改めて聖書のすごさを感じました。

「民数記」から感じた神様の心情

 聖書は歴史書として、同じ失敗を繰り返さないように教えてくれることもありますが、それとは別に、上記のように、読んでいると神様の心情が感じられることが多々あります。
 特に、聖書を読む前に、「神様・イエス様の考えや心情がわかるように」と祈って読むと、同じ文章を読む中でも、そこから感じる神様・イエス様の嬉しい心情、悲しい心情、悔しいと感じている心情が深く感じられることが多いです
 その一つとして、私は聖書の「民数記」を通じて神様の心情を感じたことがあります。
「民数記」は、聖書に詳しい方は分かるかと思いますが、最初の方では、人口調査のため、神様を信じる色々な部族を何度もカウントする場面が書かれている章で、聖書を通読するにあたり、一番読み飛ばしたい、読んでいて眠くなる章だと私は感じています。。
 しかし、ある時、教会のイベントで出席者の取りまとめ係をしていた私は、楽しい企画だから多くの人に参加してもらいたいと思っていましたが、参加者が増えると嬉しく、逆にキャンセルになる人がいると残念に思いながら何度も出席者の調整をやっていた中で、ふと、何度も繰り返し民がカウントされていた「民数記」を思い出し、ああ、神様はご自身を知って信じる人々が増えていっているのがとても嬉しかったんだな、嬉しくて嬉しくて、だから「民数記」では、神様を知る民族を何度も何度もあのようにカウントしていたのだな、と神様の心情を感じました。
 神様はとても大きな存在であるだろうに、人間が神様を信じることをそれほどまでに嬉しく思ってくれるのか、と思ったのと同時に、色々なことが書いてあるように見えるけれども、実はそれはことごとく人間についてのことである聖書が、神様のラブレターだといわれる理由がまた一つ分かった気がしました。

神様、イエス様の心情を感じること

 また、このように神様・イエス様の心情を聖書からありありと感じられたのも、牧師から聖書が比喩で書かれていることや、読み方を教えてもらったからであり、何より牧師の心情が神様、イエス様と近いから、こんなに近くに感じることができると感じ、神様、イエス様の心情をいつも教えてくれる牧師に感謝しています。

 今日もお読みいただきありがとうございました

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この記事を書いた人

東京在住。
大変田舎から東京へ出てきて早20年以上。
学生時代はずっと何かしらスポーツをやってきていて、やっと自分はもしかして脳筋だったのかも…と数年前に気づきましたが、神様と教会の方々を通じて芸術面の目も開け、絵画やクラシックを鑑賞することも大好きになりました(*^^*)
様々な面を成長させてくださることや、立ち返ることができる場所を下さっている神様に感謝しています。

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