私は現在医師になり約15年になります。ちなみに、摂理に来てからは約22年になります。つまり、人生の半分近くを摂理に所属しながら過ごしています。
ちなみに、2児の父親でもあり、摂理の中で家庭を持つようになってからは約12年になります。つまり、摂理に所属する期間の半分以上は家庭生活を営んでいます。
今までの人生、特に医師となってからの生活や仕事の中で摂理で信仰を持っていて良かったと思う瞬間は多々ありますが、それらをすべて紹介することは難しいので、その中の一部もしくはそれらをまとめたような感じで紹介していきたいと思います。
摂理とはどんなところか?
これは百聞は一見に如かずと言うように、摂理で聖書を学び、所属してみないとどんなところかは実際にはわからないと思います。ぜひ、来て見てほしいです(笑)
が、私なりに説明するなら、「自然体でいられるところ」と思っています。
摂理に来る前の私は人の目を気にして、人の評価を気にして行動しており、そこに縛られていました。しかも、無意識的にそのようになっていました。その為、自然体とはほど遠く、本当の意味での自由ではなく、自分らしさや個性が輝いているとは言い難かったと思います。摂理に来るまではそのように縛られていた自分にすら気づいていないほどでした。
そんな私を変えたのが摂理であり、摂理で学ぶ聖書とその御言葉でした。その話の中身は神様がどのような目的で人間を創造されたのかを知ることができ、人間本来の姿がどのようなものなのか知ることができるものです。そして、誰もが一度は考えるであろう人生の目的について解き明かしてくれるものです。もちろん、自分一人に関する目的を知ることができます。正確には悟ることができると表現するのが正しいのかもしれません。その御言葉を伝えて下さる方が鄭明析(チョン・ミョンソク)牧師です。
その御言葉を学んで私自身のことをより深く知るようになり、考えが変わり、そして行動が変わりました。そうすると生活、つまり人生が変わります。しかもより良く変わります。なぜなら御言葉には神様の愛と心が詰まっているから人間がより良くなれるように教えてくれるからです。そして、人に影響を受けることがない自由な自分、つまり自然体な自分を取り戻すことができました。これを摂理では救われたとも言います。
取り戻す、という表現がぴったりだと私は思っています。
なぜなら、全ての人が生きていく過程で見つけるべき見失ってしまった本来の自分らしさや個性があると思うからです。そして、それは神様が全ての人に与えたギフトでもあるからです。
もちろん、私自身まだ完全に取り戻したわけではなく途上ではありますので、引き続き御言葉を学びながら成長をし続けています。
そんな途上とはいえ、自然体を取り戻した私が医師として社会に出て経験したことは、患者や職場のスタッフからの自分への評価の高さでした。間接的に人から私に伝えられてそのように評価されていることを知る機会がよくあり驚きました。職場の接遇コンテストでは1位に表彰されることもありました。私は意識して人に対して良く接しようとか、より良く見せようとは思っておらず、ただ自然体で人と接していただけでした。この自然体の姿が他の人には良く見えたようです。
その自然体の姿は、まさに摂理で取り戻した自分らしい姿でした。その姿の核心にあるものは神様の愛と心であると確信しています。
医師とは知識と技術は日々鍛錬して習得しつつ高めていく専門家であると同時に、人との接点が多く、患者とその家族の命や人生が大変な時に関わることが多い立場でもあります。その時に最善の医療を提供していく為には、知識と技術はもちろんのこと、人間性と言うべきかはわかりませんが、そのような患者と家族を思いやり寄り添う人格も必要と考えています。
知識と技術はたくさん学ぶ機会はありますが、後者の人間性に関しては学ぶ機会はほぼ無いのが現状ですし、個人に任せられています。その人間性を磨く、というか取り戻すのに私は摂理での信仰生活がとても役立ったように思います。
摂理、つまり「自然体でいられるところ」が医師である私にはとても大切な意味があるところでしたし、無くてはならないところとなりました。
医師という立場でなくても、全ての人が本当の意味での自由を得て自分らしさや個性を輝かせる自然体を取り戻すことはとても大切なことと考えています。そして、そのような姿で生きる人は他の人を愛することができると確信していますし、そうすると戦争など悲しい出来事は起こらないのではないかと信じています。
世界中の人が笑顔で平和な生活を送ることができることを切に祈りつつ私の話を締めくくりたいと思います。