先日、摂理(キリスト教福音宣教会)のある牧師の話を聞く機会がありました。
その牧師が人を理解することは難しいと話しており、理解できなかったとしても誤解しないでほしいと話しており、とってもハッとさせられました。
今まで多くの人と接してきましたが、理解しがたい発言や行動を目にすることはよくありました。
その時に自分はどのようにその人を判断していたかは記憶がないことが多いですが、もしかしたらその人を誤解してしまっていたこともあったかと思います。
その人の心であったり、その発言や行動の背景であったり、もっと突っ込むなら生い立ちだったり、信仰的な観点ならその人が神様からどんな使命を受けて生きているかはその人にしかわからないものです。
わからないから理解できないことがあって当然かと思います。しかし、その時に自分勝手にその人のことを判断してしまい、誤解してしまってはいけないと思いました。
誤解せずに理解できるよう努力して寄り添うことが大切だと思います。
鄭明析牧師に対してもそのように判断することが大切だと思っています。牧師の発言や行動ですぐに理解できないことは今までに多くありました。私はその時にすぐに判断せず、なぜそのようにするのか考えながら祈りながら、神様から答えが来るまでこうだと決めつけずに、誤解せずに待ってきました。
そうしていると、本人からや、人を通してや、御言葉を通してや、聖書を通してなど様々な形で神様が教えて下さり、誤解することなく牧師に対して理解が深まっていきました。
そうすると、牧師について誤解なく、これだけは真実だと言えることがはっきりと浮彫になってきます。それは、「ひたすら神様を愛する人、イエス様を愛する人、命を愛する人」だということです。
牧師の発言と行動はその人を愛するゆえになされることであり、決して自分の利益のためではないことがわかります。
メディアやネットなどで牧師のことを様々に判断され、色々と悪く言われているのを見るたびに、誤解されているのがわかるので心が痛みます。そういう方ではないからです。
私のこの言葉だけでは鄭明析牧師の理解には繋がらないと思いますし、実際に牧師の姿を長く見ていかないと理解するのは難しいと思います。ただ、理解していないうちに誤解はしてほしくないと思います。
私も過去に多くの人に対して誤解してきたと思いますので、自戒の念をこめて今回の話を書き綴ってみました。
ぜひ人に対して理解しがたいことがあっても誤解せず、理解できるよう努力しながら寄り添っていくこと心にとめて生活していってほしいと思います。そのような意識で生活する人が増えたらもっと世界が平和になるのではないかと願うばかりです。